本誌ネタバレとかはない。
アシㇼパと対峙したときのヒャクノスケヤマネコのことをずーっと考えていて、いやずーっとというかぼんやりとたまに考えたりしていて、だいぶヒャクノスケヤマネコの解釈が変わった気がするのでちょっとまとめたいという気分になった。
ヒャクノスケヤマネコがいったいなにをしたいのか、ということを考えたとき、わたしはまったき愛を得たいのではないのか(無意識的に)と思っていたのだけれども、樺太での回想や言動をみるに、むしろ愛の存在を否定したいのではないかという結論に行き着いたわけですね。ここでいう愛というのは愛全般であって人間愛とか同胞愛とか家族愛とかそういうやつ。愛、そして愛を持つ人間を否定したいのではないかな、と思うようになった。
鶴見中尉とうさみの過去回想によれば、「殺人の壁をも乗り越えさせるものは愛である」らしいけれども、これはヒャクノスケヤマネコにも当てはまりはするんだよ。ヒャクノスケヤマネコの最初の殺人は母親だけど、なぜ殺したかと言えば、ヒャクノスケヤマネコの言い分を真実とするなら、「母親を父親と会わせてやりたかったから」であって、これは母親に対する愛で間違いないと思う。殺すな殺すなと突っ込みたくはなるけれども。でも、母親を殺したのにそれはかなわなかった。茨城出身であるヒャクノスケヤマネコがその後北海道の第七師団に入営したのは、父親に近づくことで「なぜかなわなかったのか」をたしかめるためだったのではないか、そうだとしたらそれもまた母親への愛であり、そのためにヒャクノスケヤマネコはふたたび、殺人という壁を乗り越えたわけです。兵士は戦争のコマであり敵の人間を殺すためにあるから。
そして勇作さんに出会ってしまう。勇作さんはヒャクノスケヤマネコに兄弟愛をあたえ、そして要求してくるわけです。それをヒャクノスケヤマネコがどう思っていたのか推しはかるすべはない。ヒャクノスケヤマネコの勇作さんに対する感情はどうにもはかりにくい。高潔だなんだとほめそやしながらも「まとわりついてくる」と表現したりするし、本妻から生まれた嫡子に妾腹の子がこう接されたらイヤじゃないのか? という常識的な推測はできなくもないんだけど、ヒャクノスケヤマネコがどう受け止めたかはわからないまま。
はっきりわかるのは勇作さんが「ひとを殺しても罪悪感を抱かない人間なんてこの世にいていいはずがない」と言ったのに対し、ヒャクノスケヤマネコは「(殺す道理があってさえ殺人を忌避する)おまえたちのようなやつらがいていいはずがないんだ」と発するということ。ヒャクノスケヤマネコの台詞じたいはアシㇼパに対するものだけど、この「おまえたち」がアシㇼパと勇作さんであることは疑いない。ヒャクノスケヤマネコはアシㇼパと勇作さんを同一視しているので。
ヒャクノスケヤマネコはこの言葉とともにアシㇼパに銃口をむけるから、勇作さんの頭に後ろから狙いをさだめたとき、ヒャクノスケヤマネコの胸のなかにあったのもこの言葉だったのではないか。殺人の壁を越えさせるものは愛だと中尉は言ったけれども、ヒャクノスケヤマネコはこれを道理だと言っているんですね。道理さえあればひとを殺したって罪悪感を抱くことなんてないと。この台詞のコマにふりかえる勇作さんの幻影が描かれているのがワオという感じだけれども。ヒャクノスケヤマネコにとって愛はひとを殺せるようにするものではなくてひとを殺すのを踏みとどまらせる、罪悪感を抱かせるものなのではないか。そういった人間愛的思考、行動をヒャクノスケヤマネコは「高潔」と評し、忌避しているのではないか、とこう思ったわけです。
ここからは妄想が濃くなるんだけども、たぶん勇作さん殺しはヒャクノスケヤマネコにとっても「道理が通っていない殺し」だったのではないかと思うんだね。だって鶴見には殺すなと言われているし、「おまえたちのようなやつらがいていいはずがない」から殺したのだとしても、それは道理じゃない。だって殺してもそういう高潔な人間が存在しなかったことにはできないから。勇作さんがひとを殺して「やっぱ罪悪感なんてなかったです、わたしの勘違いでした」とでも言わないかぎり、「いていいはずがない」は実現しない。でもそういう人間がいることが耐えられなかったから衝動的に殺した。道理の通らない殺しだから、ヒャクノスケヤマネコは罪悪感を抱くことになり、勇作さんの幻影を見ている。
そして、どうして「おまえたちのようなやつらがいていいはずがない」のかといえば、やっぱり母親のことがあるからなのかなあ。世の中がね、ヒャクノスケヤマネコのような人間ばかりだとするなら、母親の狂気と死は必然なんだよ。愛のない世界で愛を信じてしまった愚かな女が男に捨てられ狂気に陥って息子に殺された。でもこの世に愛があるのだとしたら、高潔さが存在するのだとしたら、母親が愛する男としあわせに暮らすことができ、ヒャクノスケヤマネコが祝福される道もどこかに存在したはず。そうすると母親にふりかかった不幸は必然ではなくただの不運になる。運がよければちがう道があったのに、そうはならなかったという悲劇になる。それがヒャクノスケヤマネコはイヤなのかもしれない。運命論者か? いや妄想が濃すぎる。
なにが言いたいかというとわたしが書いたゴカムのヒャクノスケヤマネコに関する二次創作が自分の書いた話なのに著しい解釈違いになってしまったことよという話でした。削除しようかなあとも思ったんだけどまあ……いまのところは「まいっか」と思って残しておくことにする。勇作さんとヒャクノスケヤマネコについての話はとくに解釈違いになってしまったし、そもそも二百三高地での戦いのときあんな寒い時期じゃないんだよな、寒さを表現したいばかりにあんなに寒そうに書いてしまったけどというのもあり、一時期はほんとうに削除したかったんだけど気持ちが落ち着いたのでよかったです。またこの解釈で二次創作ができたらいいなと思いました。三年三組豆倉まめ蔵。